大判例

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東京地方裁判所 昭和52年(刑わ)1241号 判決

主文

被告人野村秋介を懲役六年に、被告人伊藤好雄、同森田忠明、同西尾俊一を各懲役五年にそれぞれ処する。

被告人らに対し、未決勾留日数中各二〇〇日をそれぞれその刑に算入する。

被告人らから、押収してある散弾銃一丁(昭和五二年押第一三七三号の二)、散弾四〇発(同号の三)、コルトけん銃一丁(同号の六)、弾倉二個(同号の七((弾丸五発装てん、うち二発は試射済))および八((弾丸二発装てん、但し試射済のもの)))、けん銃弾三八発(同号の九((三七発、うち一九発は試射済))および一五((一発、但し試射済のもの)))、日本刀一振(同号の一三)、空薬きよう四個(同号の一九および二二)、鉛ようの金属片五個(同号の二一および二三)、変形した金属のかたまり一個(同号の二四)をそれぞれ没収する。訴訟費用は全部被告人らの連帯負担とする。

理由

(罪となるべき事実)

((被告人らの経歴および犯行に至る経過))

一被告人らの経歴

被告人伊藤好雄(以下被告人伊藤という)は、東京都立竹台高等学校を卒業後、昭和四〇年早稲田大学政経学部政治学科に入学したが、当時発生していた学園紛争においていわゆる左翼学生に対抗すべく、早大学生連盟に加入し、同四一年八月に日本学生同盟の、同四二年春には早大国防部の各結成に加わり、更に尚史会等の研究会に参加して、日本文化や歴史等を研究するうち、同四二年末、作家三島由紀夫と知り合つてからは、日本文化の精髄は天皇制にありこれを守るためには日本の共産化を絶対に阻止しなければならないとする同人の思想に共鳴し、同四三年同人が民間防衛組織として結成した「楯の会」に第一期生として入会し、自衛隊の体験入隊や社会情勢の勉強会等を続けていたところ、同四五年一一月右三島および森田必勝らが市ケ谷の自衛隊に乱入して自決したいわゆる三島事件が発生するや、これに感動し、みずからも将来国家変革のため何らかの行動に出なければならない旨心中深く期するに至つた。その後同被告人は、同四七年右大学卒業とともに株式会社国土企画開発に入社し、同五〇年八月同会社をやめた後は警備保障会社や飲食店のアルバイトなどをし、同五二年二月以降は、後記野村事務所に住み込んで本件犯行の準備および身辺の整理に専念していた。

被告人森田忠明(以下被告人森田という)は、昭和四四年三月浪商高等学校を卒業後直ちに海上自衛隊に入隊し、約二ケ月で除隊したものの、同年九月、改めて陸上自衛隊に入隊するとともに、同四五年四月国士館大学二部政経学部に入学したが、既に高校在学中からいわゆる右翼関係思想書に親しんで次第にこれに傾倒するようになり、更に前記三島事件の発生を契機に前記日本学生同盟の三島由紀夫研究会に参加するなどするうち、左翼打倒、国家改造等を深く思いめぐらし、同四六年九月自衛隊を満期除隊して暫く建設会社の手伝いをした後、同四八年四月ころ「大東塾」に入り影山正治の指導を受け、同四九年三月前記大学を中退して東亜学院に入学し、同五一年三月同学院を卒業した。その後同被告人は、同年四月ころから後記スナツク「山河」の手伝いをし、同年九月新聞輸送株式会社に入社したが、同五二年一月同社をやめ、その後は後記野村事務所に住み込んで、本件犯行の準備および身辺の整理に専念していた。

被告人西尾俊一(以下被告人西尾という)は、茨城県立下妻第一高等学校を卒業後、昭和四二年四月国士館大学政経学部に入学したが、同四三年、前記日本学生同盟および日本学生国防会議に加入して大衆運動に従事し、同四四年三月、右大学を中退して立正大学文学部に入学したものの、大衆運動に限界を感じ、前記森田必勝らとともに祖国防衛隊、靖国学生連盟を結成して戦闘訓練を行い、更に同年八月には前記「楯の会」に第四期生として入会し自衛隊の体験入隊等を繰返すうち、前記三島事件発生の際には現場近くの市ケ谷会館に集結し、警備の機動隊により公務執行妨害で逮捕されるなどしたこともあつて、右事件に深い衝撃をうけ、学業を続けることに疑問を抱き、同四六年三月右大学も中退した。同被告人はその後、会社勤めや作家秘書、ガードマンを経て 同五〇年一一月株式会社珠洲総業に入社したが、同五二年一月同社をやめ、その後は本件犯行の準備および身辺の整理に専念していた。

被告人野村秋介(以下被告人野村という)は、昭和二八年ころ神奈川県立工業高等学校を二年で中退し、身を持ち崩した末、数回にわたつて刑事事件を起し、同三一年一二月から同三三年八月まで甲府刑務所で、同三四年五月から同三五年一二月まで網走刑務所で、それぞれ服役したが、右甲府刑務所で服役中、右翼思想家三上卓門下の青木哲と知り合つてその影響を受け、出所後右三上の門下生となり、更に網走刑務所出所後、一時父の経営する南武鉄工株式会社に勤務するかたわら、右三上のすすめにより右翼団体である天照義団の機関紙編集に従事した。しかし同被告人は、間もなく、暴力団の加盟まで求めようとする既成右翼の立場にあき足りなくなり、みずから憂国道志会を結成して大衆運動を展開する中で、同三八年七月、いわゆる河野邸焼打ち事件を起こして千葉刑務所で服役したが、右服役中いわゆる右翼民族派思想家の著作等を通じ、日本民族の真の独立を回復するためには戦後体制を取りはらうとともに共産主義化に対抗することが必要であり、みずからがその前衛としての役割を果さなければならないとの考えを固め、同五〇年三月仮出獄して一時前記南武鉄工の常務取締役に就任したものの、間もなく退社し、同年九月から東京都大田区西蒲田八丁目二番一号西蒲田スカイハイツ三〇九号に野村事務所を開設し、いわゆる新右翼と称する者らとの接触を深めつつ、そのかたわら同五一年四月から同区池上六丁目四一番七号に妻名義でスナツク「山河」を開店し、その手伝いをしていた。

以上のとおりで、被告人伊藤、同西尾は、かねて「楯の会」会員として行動をともにし、前記三島事件による同会解散後も親交を深めていたが、被告人西尾は、同五〇年三月、被告人野村が千葉刑務所を出所するにあたり前記青木哲とともにその出迎えに行つたことから同被告人と知り合い、同年一〇月ころ被告人伊藤を同野村に紹介し、他方、被告人森田は、前記三上卓のすすめもあつて、同年一二月ころ同野村を訪ねて同被告人と知り合い、同被告人を通じて被告人伊藤、同西尾を知つた。

二犯行に至る経過

被告人らは、以来親交を重ねるうち

現在の日本の国家体制はヤルタ協定、ポツダム宣言に由来し、「ヤルタ・ポツダム体制(YP体制)」と呼称すべきもので、右体制は米ソ両国による日本の弱体化政策にほかならず、アメリカは戦後、いわゆる占領憲法を押しつけ日米安全保障条約を締結するなどして、日本国の精神的支柱たる天皇を国民から離反させ、民族の歴史、伝統、文化への誇りをゆるがし、国民をして精神的に荒廃させるとともに、軍事的にも日本を無防備状態においてその弱体化を図つており、他方日本の政財界もまた経済的繁栄を追うあまり、専ら営利至上主義をこととし、右YP体制を内側から支えることにより右日本弱体化政策に手を貸してきたものであり、その結果国民は漫然と虚構の平和と繁栄に甘んじている状態で、日本はいまや国家崩壊の危機に直面しており、かかる危機にこそ、右翼は行動を起し右YP体制の打破を目指すべきであるのに、政財界とのゆ着の著しい既成右翼にはとうてい右の行動を期待し得ず、一方右翼民族派と称する者らにもなお行動力にかける点があり、従つて被告人らが決起して政財界の反省、国民の自覚、右翼諸派の覚醒を促し、前記の如き日本の状況を打破するための前衛の役割を果さなければならない旨ほぼ共通した認識を互いに確認し合つていた。

このような中にあつて、被告人野村は、昭和五〇年八月日本赤軍派の人質作戦により在監者が奪還されたいわゆる「クアラルンプール事件」に際して政府がとつた措置、およびその際右翼がなんらの行動をも起さなかつたことに強い不満を抱き、将来同様の事態が発生した場合にはみずから行動を起して左翼に対抗しようと考えていたところ、同五一年一〇月、日本赤軍派の奥平純三が強制送還されてくるや、同派が同年一一月一〇日の天皇在位五〇周年式典を期して、前記事件同様人質をとつて同人の奪還をはかるであろうと予測し その際にはみずからも人質をとつて政府に選択を迫り、もつて同人の奪還を阻止しようと決意し、そのころ被告人伊藤、同森田、同西尾に右決意を打ち明け、日本赤軍派が右作戦に出れば、被告人らも行動を起こし、日教組本部を占拠して人質をとることを計画しその機会をうかがつていたが、同派においてなんらの行動も起さなかつたため、結局右計画は実行されることなく終つた。

しかし被告人西尾は、焦燥の余り、この際もはや日本赤軍派の出方をまつことなく、みずから先制的に行動を起して前記の如き日本の状況を打破するための前衛的役割を果すべきであると考え、同年一一月中旬ころ、その旨被告人伊藤、同野村に提案したところ、被告人伊藤もこれに賛同し、同野村も右被告人両名の決意が固いことを知つて、ともに行動することを決意し、更に被告人野村において、右計画につき同森田の賛同を得た。

その後被告人らは、同年一一月末ころ前記スナツク「山河」において、翌五二年一月中旬ころ同都大田区蒲田本町二丁目八番一号松栄マンシヨン四〇五号の被告人野村方において、更に謀議を重ね、社団法人経済団体連合会(以下経団連という)は戦後YP体制を支え国民の間に営利至上主義の風潮を植えつけ現在の社会諸悪の根源をなしている財界の中枢であり、これを襲撃して被告人らの前記趣意とするところを表明し政財界をはじめ広く国民一般の反省を求めることはYP体制と既成右翼への批判につながるもので最も意義があるとし、警戒も手薄なところから、経団連のある経団連会館を襲撃目標とし、右襲撃にあたつて使用する組織名を「YP体制打倒青年同盟」とすること、武器はライフル銃、けん銃、日本刀を使用し、銃を威嚇発射するなどして反抗を抑圧し、経団連役員および職員を人質にとり、バリケードを築いて役員室を占拠すること、檄文を配布してこれに対する経団連の回答を迫ること、被告人伊藤を襲撃隊長、同森田を副隊長とすること、決行日時は「桜田門外の変」にちなみ三月三日とすることを決定したほか、犯行当日携行すべき武器、檄文等の準備ならびに現場の下見等についての分担、犯行前日および当日の行動予定を取り決め、右取り決めに基づいて、被告人伊藤、同西尾は昭和五一年一二月上旬から翌五二年二月下旬までの間経団連会館の下見をし、被告人野村は、昭和五一年一一月中旬から一二月下旬までの間、かねてじつ懇の岩上賢に依頼して猟銃(散弾銃)一丁(昭和五二年押第一三七三号の二)とその実包約七〇発(同号の三、同号の一九および二二((使用済空薬きよう))、同号の二一および二三((使用済弾頭))はその一部)を購入させたほか、みずからコルトけん銃一丁(同号の六)とその実包約五〇発(同号の七および八の実包((うち四発は試射済))、同号の九および一五((うち二〇発は試射済))、同号の二四((使用済弾頭))はその一部)を購入したうえ、同五二年二月中旬被告人伊藤とともに右猟銃およびけん銃の試射をしてその機能を確かめ、更に、同年二月中旬檄文三〇〇枚(前同号の一七、二〇はその一部)を印刷させるなどしてそれぞれ犯行の準備をする一方、各自身辺の整理をしたうえ、予定どおり、同年三月二日同都千代田区所在の新橋第一ホテルに集結し、その際被告人伊藤において前記けん銃および実包を携行し、ついで皇居、靖国神社、明治神宮に参拝した後横浜市所在のホテル「ニユーグランド」に投宿し、同夜同ホテルにおいて、犯行方法の最終打合せを行い、その結果、けん銃は被告人伊藤が、猟銃と日本刀はライフルバツグ(前同号の一)に入れて被告人西尾が、檄文は被告人野村が、それぞれ携行して経団連会館内に搬入し、エレベーターで役員室のある七階に上ること、侵入の際警備員に発見阻止された時は、けん銃で脅して人質にすること、同階便所で猟銃を組み立て、けん銃は被告人伊藤が、猟銃は被告人西尾が、日本刀は被告人森田がそれぞれ携帯し犯行に使用すること、役員室に突入して役員や職員を人質にとり、猟銃で威嚇発射をし、被告人西尾が人質の見張りをする間他の三名は出入口にバリケードを築くこと、檄文は役員室で配布し、被告人野村が経団連側や報道関係者にその趣旨説明をして経団連側の回答を求め、右回答があるまで人質をとつて占拠を続けるが、女子の人質はできるだけ早い時期に解放すること、人質や警察官等に対しては威嚇発射をするが、万一死傷者を出した場合には責任をとつて自決することなどを謀議決定し、その後被告人野村は前記岩上に電話して前記猟銃とその実包約二五発を同ホテルに持参させた。

ついで翌三日午後一時ころ被告人らは右ホテルを出発して経団連会館に向い、その途中、横浜市内の刃物店で日本刀一振(登録記号番号第三四四一八号を以て茨城県教育委員会に登録済のもの)(前同号の一三)を購入し、更に前記被告人野村方に立ち寄り、前記猟銃用実包約二五発を持ち出し、同日午後三時五五分ころ、経団連会館前の農協会館に入り、同所で経団連会館侵入の順序を確認するとともに、被告人伊藤は所携のけん銃に弾倉を装填して準備を整え、同日午後四時すぎころ、被告人西尾が猟銃、日本刀在中のライフルバツグを、被告人野村が檄文の束を、それぞれ携行して、経団連会館に向つた。

((犯行状況))

被告人らは以上のとおり共謀のうえ、

第一  同日午後四時一〇分ころ、前記目的で、けん銃、猟銃、日本刀等の兇器を携え、同都千代田区大手町一丁目九番四号経団連会館(管理者同連合会事務局会館部長福森博)正面玄関東側出入口から同会館一階ホール内に押し入り、もつて故なく人の看守する建造物に侵入した。

第二  ついで右一階ホールにおいて警備員の制止を振り切つてエレベーターに乗り込み七階に直行しようとしたが、誤つて六階で降りてしまつたため、同階で行動を開始することとし、同階便所で猟銃を組み立て、日本刀をライフルバツグからとり出すなどして武装をととのえ、被告人西尾が右猟銃を、同森田が右日本刀を、同伊藤が前記けん銃を、それぞれ携えて、同階の同連合会事務局総務部秘書課分室に向い、同日午後四時二〇分ころ、被告人伊藤において、右分室前エレベーターホールに居合わせた同課職員東出房子(当時二一年)に対し、その背後から右けん銃を突きつけ、驚ろいた同女が右分室内に逃げ込むや、その後を追つて被告人西尾、同森田とともに分室内に乱入し、右東出および同室内に居合わせた同課職員福島方子(当時四二年)、同鈴木秀子(当時二五年)、元同課職員片岡よし子(当時二九年)ならびに経団連常務理事千賀鉄也(当時六七年)に対し、被告人伊藤がけん銃を、同森田が日本刀の抜身を、同西尾が猟銃をそれぞれ示し、「静かにしろ」「会長室に案内しろ」などと申し向けて脅迫し、その行動の自由を制圧したうえ、被告人野村も加わり同人らを七階の同事務局総務部秘書課室まで連行し、同日午後四時二五分ころ、同室において、右千賀ら五名および同所に居合わせた同課職員小俣文子(当時四〇年)、同鵜殿圭子(当時二三年)、同池誠(当時三六年)、同課調査役小池一雄(当時四三年)に対し、被告人伊藤、同西尾がそれぞれ所携の前記武器を示し、同西尾において「壁の前に一列に並べ」と申し向けて同人らを同室壁際に並ばせ、その間被告人野村、同伊藤、同森田において前記秘書課室前ロビーの出入口に長椅子や植木鉢ケースなどでバリケードを築き、更にそのころ被告人野村において近くの湯沸室にいた同課職員峯川不二子(当時二七年)を右秘書課室まで連行して右千賀らの横に並ばせ、被告人森田も同課内に至り日本刀の抜身を示すなどして右千賀ら一〇名の行動の自由を制圧したうえ、同人らを右秘書課室奥の同連合会会長室に連行して同室内に閉じ込め、ついで被告人西尾において同伊藤の指示により前記ロビーの天井に向けて猟銃で三発威嚇発射し、更に被告人伊藤において、同日午後四時三〇分すぎころ、同階第二応接室付近にいた同事務局広報部職員中村典夫(当時二五年)および右同室内にいたブラジル日本商工会議所会頭廣川郁三(当時六六年)に対しけん銃を示して脅迫し、その行動の自由を制圧したうえ、同人らを前記会長室に連行して前同様同室内に閉じ込め、このようにして閉じ込めた右の者らに対し、被告人らはいずれもYP体制打倒と墨書した用意の白鉢巻(前同号の四、一一、一四、一八)を締めて気勢をあげ、被告人伊藤、同森田、同西尾においてそれぞれ前記の各武器を示し持ち、被告人野村において「若い三人は死ぬ気で来ている。決して遊びごとじやない」と、被告人伊藤において「弾は二〇〇発あるから大丈夫だ。騒ぐと危いぞ、おとなしくしていろ」などと申し向けて威勢を示すなどし、更に前記檄文を配付したりしながら監視を続け、またその間、被告人らは交代して同室に通ずるすべての出入口に旋錠し、或いは机、椅子などでバリケードを築き、同室への出入を封鎖したが、前記千賀らからの強い要請もあつてまず女子の人質および部外者前記廣川を解放することとし、同日午後四時三七分ころ、前記東出、福島、鈴木、片岡、小俣、鵜殿、峯川および廣川の八名を同室から出して解放した。その後、被告人伊藤において外部の物音を聞きつけて前記秘書課室前廊下および前記第二応接室において、前記猟銃で三発、けん銃で一発をそれぞれ威嚇発射して気勢を示すなどし、引き続き被告人らは、前記の各武器を持つて前記千賀、中村、池、小池の監視と前記会長室内外の警戒にあたりつつ、前記檄文に対する経団連側の回答を得るべく同会会長ら責任者との連絡を図ろうとしたものの容易に果たせず、そうするうち、前記千賀、中村の両名が長時間の監禁による身体の不調を訴えたため、同日午後九時三分ころ、右両名を右会長室から出して解放した。その後被告人らは、なおも前記小池、池の両名を前同様監視して右会長室の占拠を続け、執拗に経団連責任者との接触を図つたが、実現しないまま、同所に至つた三島由紀夫未亡人平岡瑤子および警視庁公安部警部補大内浩の懸命の説得により遂に投降することを決定し、翌四日午前三時ころ、右小池、池の両名を同室から解放した。

以上のようにして、被告人らは、千賀ら一二名に対し脅迫を加え、それぞれその行動の自由を制圧したうえ、前記東出、福島、鈴木、片岡、小俣、鵜殿、峯川、廣川の八名については三日午後四時三七分ころまで、千賀、中村の両名については同日午後九時三分ころまで、小池、池の両名については翌四日午前三時ころまで、それぞれ右会長室からの脱出を不能ならしめ、もつてそれぞれ同人らを不法に逮捕監禁した。

第三  同月三日午後四時一〇分ころから翌四日午前三時ころまでの間、前記会館内において、法定の除外事由がないのに、前記けん銃一丁、猟銃一丁、けん銃用実包二五発および猟銃用実包四六発を不法に所持し、正当な理由がある場合でないのに、登録を受けた前記日本刀(刃渡り四五センチメートル)一振を不法に携帯した

ものである。

(証拠の標目)〈略〉

(弁護人の主張に対する判断)

弁護人は、被告人らの本件行為は、前判示の如きYP体制の存続、強化により国家存立の基礎を失い滅亡の危機に瀕している現在の日本を救うため、戦後右YP体制と表裏一体をなした日本国憲法および日米安全保障条約のもとに、右体制を強力に推進し現在の危機的状況を招来させた財界の中枢たる経団連を襲撃してその反省を求め、もつて右体制打破の端緒を開くべく敢行されたもので、右は、国家的法益を防衛する目的で、経団連による急迫不正の侵害に対しやむをえずなされた行為であり、かつその程度も行為の態様、当時の状況に照らし相当であるから、正当防衛として違法性が阻却されるべきであり、かりに右主張が認められないとしても、被告人らは、前記侵害行為の主体を経団連と誤想して防衛行為をなしたものであるから、誤想防衛として故意が阻却されるべきであると主張する。

しかしながら、本来国家的法益を防衛することは、国家公共機関の本来の任務に属する事柄であつて、これをた易く私人又は私的団体の行動に委すことはかえつて秩序を乱し事態を悪化させる危険を伴う虞があり、従つて国家的法益に対する正当防衛は、国家公共機関の有効な公的活動を期待しえない極めて緊迫した場合においてのみ例外的に許されるべきものと解するのを相当とするところ、弁護人の主張は、要するに、わが国の最高法規である日本国憲法をYP体制の所産であつて無効であるとし、戦後の現国家体制はYP体制下右憲法のもとに築き上げられてきたものとしてこれを否定する立場に立ち、被告人らは現下の政治、経済、社会各層に見られる諸々のひずみや悪弊はいずれも右体制そのものに基因するもので、このことは右体制を推進した財界の中枢たる経団連の国家に対する侵害行為にほかならず、経団連襲撃によつて右体制打破の端緒を開き日本の滅亡の危機を救済すべきであるとして本件行為に出たものであると断ずるものであつて、その立脚する右立場に照らし弁護人の主張するところが右憲法の下位規範たる刑法の保護法益として防衛されるべき国家的法益の範囲に属しないことはその主張自体から明らかであるばかりでなく、他面、国民主権と民主主義を基調とする現国家体制のもとにおいては、国民は、政治、経済、社会の諸施策を自由に批判し、公的機関を通じてその是正や救済を求める権利を有し、国家公共機関もまた右権利を最大限に尊重し、常にその権利擁護のために対応できるよう態勢を整えており、わが国は戦後日本国憲法を国の最高法規として右の如き整備された国家の機構組織のもと、時に諸般の社会的矛盾や病理的現象を伴いながらもこれを克服する努力を重ねつつ進展を遂げてきたものであつて、かかる体制上の仕組および歴史的経過に徴すると、わが国の現状が国家公共機関の有効な公的活動を期待しえない急迫した危難に直面していると言えないこともまた極めて明らかである。

よつて弁護人の正当防衛の主張は採用できず、また誤想防衛の主張も、以上によりその前提を欠くこととなるから採用するに由ない。

(累犯前科)

被告人野村秋介は、昭和三九年一〇月二三日、横浜方裁判所で住居侵入、脅迫、現住建造物等放火、銃砲刀剣類等所持取締法違反罪により懲役一二年に処せられ、同五一年四月五日右刑の執行を受け終つたものであつて、右の事実は同被告人の当公判廷における供述および検察事務官作成の同被告人に対する前科調書によつてこれを認める。

(法令の適用)

被告人らの判示第一の各所為はいずれも刑法一三〇条前段、六〇条、罰金等臨時措置法三条一項一号に、判示第二の各所為はいずれも刑法二二〇条一項、六〇条に、判示第三の所為中けん銃および猟銃各所持の点はいずれも昭和五二年法律五七号(銃砲刀剣類所持等取締法の一部を改正する法律)附則三号により同法による改正前の銃砲刀剣類所持等取締法(以下単に「改正前の銃砲刀剣類所持等取締法」という。)三条一項、三一条の二第一号、刑法六〇条に、けん銃用実包および猟銃用実包各所持の点はいずれもそれぞれ包括して火薬類取締法二一条、五九条二号、刑法六〇条に、日本刀携帯の点はいずれも改正前の銃砲刀剣類所持等取締法二一条、一〇条一項、三一条の四、刑法六〇条に各該当するところ、判示第一の住居侵入と同第二の小池一雄ほか一一名に対する各逮捕監禁との間にはそれぞれ手段結果の関係があるので、刑法五四条一項後段、一〇条により結局以上を一罪として刑および犯情の最も重い小池一雄に対する逮捕監禁罪の刑で処断することとし、判示第三のけん銃、猟銃、けん銃用実包、猟銃用実包各所持と日本刀の携帯は、一個の行為で数個の罪名に触れる場合であるから、同法五四条一項前段、一〇条により一罪として刑および犯情の最も重い猟銃所持の罪の刑で処断することとし、所定刑中懲役刑を選択したうえ、被告人野村には前示の前科があるから、同被告人に対し同法五六条一項、五七条により再犯の加重をし、被告人らにつき以上は同法四五条前段の併合罪なので同法四七条本文、一〇条により重い判示第二の罪の刑に法定の加重をした各刑期の範囲内で、後記の量刑事情に鑑み、被告人野村を懲役六年に、被告人伊藤、同森田、同西尾を各懲役五年にそれぞれ処し、同法二一条により被告人らに対し未決勾留日数中各二〇〇日をそれぞれその刑に算入し、押収してある散弾銃一丁(昭和五二年押第一三七三号の二)、散弾四〇発(同号の三)、コルトけん銃一丁(同号の六)、弾倉二個(同号の七((弾丸五発装てん、うち二発は試射済))および八((弾丸二発装てん、但し試射済のもの)))、けん銃弾三八発(同号の九((三七発、うち一九発は試射済))および一五((一発、但し試射済のもの)))、日本刀一振(同号の一三)、空薬きよう四個(同号の一九および二二)、鉛ようの金属片五個(同号の二一および二三)、変形した金属のかたまり一個(同号の二四)はいずれも判示逮捕監禁の用に供した物で犯人以外の者に属しないから、同法一九条一項二号、二項を適用して被告人らからこれを没収し、訴訟費用については、刑事訴訟法一八一条一項本文、一八二条により、全部被告人らに連帯して負担させることとする。

(量刑事情)

被告人らは、前判示の如き主義主張と状況認識のもとに本件犯行に及んだものと認められるところ、被告人らは、ひたすら自己の主義主張のみを唯一絶対であるとし、果して右主義主張が識者の批判に耐え国民多数の支持を受けられるかどうか、また被告人らの状況認識が客観性を帯びたものであるかどうかを顧みることもなく、いたずらに悲憤慷慨して危機感にひたり血気の余り暴力に訴えて自己の主義主張の実現を図ろうとしたもので、右は、民主主義の基本理念である法の支配を否定し、民主主義社会の根底をゆるがすものとしてとうてい許容できないばかりでなく、犯行の態様も、周到な謀議と準備を重ねたうえ、けん銃、猟銃、日本刀等の兇器を携えて、白昼都心の経団連会館に押し入り、女子や高齢者を含む一二名もの者に対し、右兇器を突きつけ、或いは威嚇発射をし、更にバリケードを築くなどして同人らを人質にして監禁し、女子職員らについては間もなく解放したものの、その余の者についてはなお深更ないし深夜に至るまで長時間にわたつて監禁を続け、その間執拗に檄文に対する経団連責任者の回答を求め、会長室を占拠したものであつて、極めて悪質、危険かつ執拗であり、被害者らに与えた精神的、肉体的苦痛が甚大で、その慰藉もなんらなされていないことや、本件の社会人心に与えた衝撃が深刻であること、将来同種事件を誘発し社会不安を惹起する契機となるおそれが強いこと、更に被告人らは当法廷においても未だに本件犯行の正当性を強く主張してやまないことなどを併せ考えると、被告人らの責任は極めて重大である。

ところで、本件において、被告人伊藤は隊長の地位にあつて、計画段階から中心的立場で関与し、犯行時にはけん銃を所持し、けん銃、猟銃を威嚇発射するなどしたもの、同森田は副隊長の地位にあつて、犯行時には日本刀を所持して脅迫し、経団連会長の回答に固執し最後まで人質解放に反対したもの、同西尾は、日本赤軍派の行動をまたず被告人らにおいて先制行動に出ることを提唱し、かつ経団連を襲撃目標とすべきことを首唱し、犯行時には猟銃を所持して威嚇発射をしたもの、同野村は当初日本赤軍派に対抗する行動を提唱し、本件については、後見的立場に立つとともに兇器の準備を分担し、犯行時には兇器こそ所持しなかつたものの、人質との応待、事態の収拾に関与したものであり、いずれも任務の分担に従い本件犯行に積極的に加担したもので、各被告人の責任はいずれも重大であり、殊に被告人野村については、前判示のように、本件は、同被告人が提唱した日本赤軍派への対抗行動の決意がなお継続しその勢いの下に敢行されたものであり、同被告人の指導力、行動力、年齢等から他の被告人が同被告人に対し全幅の信頼と連帯感を抱いていたことが本件の大きな原動力となつていると考えられること、加えて、同被告人が、いわゆる河野邸焼打事件を惹起して服役し、その仮出獄後二年を経ずして本件に及んだもので、遵法精神を著るしく欠いている点を考えると、その刑責は更に重大であるといわなければならない。

他方、被告人らの本件行動は前判示の如き動機によるもので私利私欲に出たものとは言えないこと、犯行に際しては殺傷の結果を避けるべく配慮をしていること、各被告人とも捜査、公判を通して犯行を卒直に認め、当公判廷においても真摯謹直な態度で終始し潔く法の裁きに服しようとする心構えが見受けられることなどは、被告人らのため有利な事情として斟酌すべきものである。

以上のとおり、被告人らに酌むべき点があるにせよ、本件犯行の手段、態様、結果等、とりわけ本件が民主主義社会の存立自体にかかわる重大事案であることに鑑み、主文記載のとおりその刑を量定した次第である。

よつて主文のとおり判決する。

(柳瀬隆次 宮城安理 金谷暁)

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